『おいしいごはんが食べられますように』という祈り

 

『おいしいごはんが食べられますように』を読んだ。タイトルに惹かれて読むのをずっと楽しみにしていた。祈りのタイトル。人生って祈りだと思っているから。

 

小説で、大円団とまではいかなくともうまい具合にまとまって終わる話が好きじゃない。短期間でそんなうまいことまとまるわけがないだろ、と斜に構えてしまうため。

人生はすごく曖昧で流動的だと思う。だから小説をより現実に寄せるなら、映画のフィルムのここからここまでをばつっと切り取りそれを提供すればいいと思う。それをやっていたのがこの作品で、私はその態度がすごく好きだった。というか芥川賞受賞作品ってこういう姿勢のものが多い気がする。

 

あとなんていうか、コミュニケーション下手な人たちの話だと思った。これをやったら自分はいいと思うけど、あんな性格のあの人はどう考えるだろうという思考パターンではない人。自分の価値観に合わない他人の行動にイラついて、その人に直接不快を伝えるなり自身で消化するなりうまいこと対処ができなかった結果いびつな発散方法をしてしまう人。

自分の考えを伝えること、他人の考えを知ること、もっと恐れないでやっていこうと思った。

それってめんどくさいけど、そっちの方がより誠実な気がする。やっぱり私は、自分が恥ずかしくない人間になりたい。こうやって気張り続けるのは結構疲れるから、疲れたときはずっと引きこもっちゃうんだけど、他者と向き合うときはそういう私でありたいから。

 

日曜日の夜

 

俗世にまた疲れてしまった。モテがどうだ、結婚だの不倫だのセックスだの高学歴高収入だのうるさいよ。そこに愛はないんか。愛ってどこにあるんですか。ツイッターにはない。自分の周りにはあるとは思っている、いや信じている。祈っている。解放されたい。けど人生を終わらせるのって結構大変だということは高校生のときに知ってしまったから大人しく天命を待つしかない。まだですか、神さま。

 

少しの娯楽をやすみやすみぶち込んで何とか生きるのももう疲れたよ。でもそれが人生だからさ。あーあーやんなっちゃうよな。常日頃思ってるけど草木に生まれたかった。水素でもOK。そうしたら今の不安や悩みだけじゃなくこれから生じるであろう不安や悩みも一掃されるでしょ。私生まれ変わったら木とかになりたいですって上司に言ったら心配されたけど、人間やめたくなったことのない人間っているんですか?

 

日記とブログの書き分けが難しいとは常々思っているけど、こうやってほとばしる感情をがーっとタイピングして後から何事もなかったように綺麗に追記や削除をしたいときはブログがいいみたい。今日気づいた。

 

月曜日の朝になればこんなこと考える暇なくまた出勤して仕事してお昼ごはん食べて仕事して帰宅して夕飯食べてスマホいじってやることやらずに寝るんでしょ、お願いだからちゃんと生きてくれよ。しっかりしてくれよ。誰も自分の人生に責任とってくれないんだからさあおまえがどうにかするしかないじゃん。頑張れよ。慰めの言葉が欲しいんじゃなくてただずっと眠っていたいだけ。私が海を見るのが好きなのはそういうこと。

恋愛に対する雑感

 

恋人の存在で私の人生がいっぱいになるのがいやだ。

私は恋人以外にも大事なものをたくさん持っていたはずなのに、気づけば私の人生の中で彼の比重がどんどん増えていく。

怖い。

彼はそんなことなさそうだから、さらに怖い。

私だけそんな感じという非対称性が少し気持ち悪い。

 

 

どうしても結婚する理由がわからない。

とてもいい人で、別れる理由がないし、この人を逃してまた別の人を探すのは大変だと思う。

だからここで手を打つこと、つまりこの人を最後の恋人にすることに何の違和感も不満もない。しかし、だったら何も問題ないね、ハイ結婚、って言われた途端いやなんか違うんだよな…という感情が芽生えてしまうのはなんなんですか。私は何に戸惑っているんですか。

 

人の生活を抱え込む覚悟がないのかも。そんなの一生芽生えないかも。考えすぎかも。思いきってえいや、で始めてみてもいいんだろうけど何かが違う。よくわからない。

 

 

 

最近の自分が気に入った本

 

ヘミングウェイ老人と海

薄くて読みやすい。のに予想外の場面展開が多いのが見事。老人の感情がはしばしで伝わってくる。

 

吉野源三郎君たちはどう生きるか

生き方に悩んでしまって自己啓発本を取ったつもりが小説で、しかも自分の生き方を肯定されてしまい面食らった。わたしはいつか生産者になりたい。

 

角田光代『平凡』

短編集だった。特に2〜30代女性は自らの境遇と重ねやすいかも。角田光代の作品にはずれなどないのです…

 

林真理子『ルンルンを買っておうちに帰ろう』

日経新聞に掲載されていた彼女のインタビューが素敵だったので著作にも興味が湧いた。ページをめくるたびに笑った。読むのが楽しかった。

 

金曜日の夜

 

ノートに日記を書くようになってもう6年くらい経つ。

昔は毎日書いていたけど近年、特に今年は書きたい!と思ったときにしか書かなかった。そうしたら「今年の日記」という全体でみたとき、読み返すに堪えないものになっていることに気づいた。重い出来事ばかり書いてあるので読むのが大変。どうでもいい・なんてことない日常がちゃちゃっと書かれたターンもどうやら必要らしい。読み物には緩急を。

 

ブログを書きたいという気持ちが湧かなくなってしまった。日記とブログで書き分けるのが難しい。

 

人の文章を読むのは相変わらず好き。小説でもコラムでも論文でもツイートでもブログでもなんでも。あなたはこう考えているのね、と知るのが好きみたい。もっとあなたの考えてることを教えてください。

 

一方で自分のこと・自分に起こったことを話すのがとても苦手。どうしてなのか自分でもわからない。もう少し上手くなりたい。好き・嫌いの表示だけではなくて、〇〇だから好き、のように相手の情報量を増やすことに努めたい。求められてないかもしれないけど。

 

言語的・身体的コミュニケーションはなぜ行われるのだろうということをずっと考えていて、相手にいい気分になってもらいたいからという意見で一旦落ち着いた。このトピックを考えるきっかけとなった出来事も書かないと、なぜこの結論に至ったのか読み手には伝わらないとわかっている。しかしいかんせん面倒くさい。タイピングよりペンで出力する方が速い。スマホのロックを解除してアプリにアクセスするより、日記帳を開いた方が少ないターンで読み返せる。

 

人の考えを知るのが好きということに関連して、人からおすすめされるのが好き。自分の知らなかったことを知るのが好き。

でもそのくせめったに人におすすめをしないという自分の非対称性が気にかかっている。私はほぼ100%、人のおすすめを体験して感想を伝えているけれど、このようなコミュニケーション方法をとる人は意外と少ないらしい(私の周りには)。だから萎えてしまうみたい。期待しすぎているあたり、まだまだ青いなと思う。

 

虫の鳴き声が聞こえる。秋の夜は本当に美しい。私もあなたもいつまでも幸福でいられますように。

 

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写真も滅多に撮らない。写真を撮ることが目的化してしまいがちだから。撮ったら撮りっぱなしだから。でも文章や会話にて、相手とイメージを共有するために使われることが多い写真を、ツールとして行使していない自分がなんだか面白みのない人間に思える。私は相手と共有することを拒否しているのかなあ。だとしたらこの姿勢は相手を傷つけている気がするけれど。

 

風呂掃除が嫌いすぎる

昨日、サボりにサボりまくった風呂掃除をやっとの思いでやり遂げた。

その前にサボりにサボりまくった食器洗いをイライラしながらやった。音楽をイヤホンで聴きながらやったのに全然テンションが上がらなかった。

 

風呂掃除もイライラしながらやった。

「私はさ〜〜すっごくさ〜〜疲れてるんだよ〜」と言いながら風呂場の壁をスポンジで擦っていた。ちょっと気分が持ち直した。

 

文章って書き起こした瞬間に気取るからダメ

なんなら気取って書き落とすから私がダメ

 

感情は思った瞬間に落としましょう

この風呂場のエピソードもさ、昨日の話だから鮮度が落ちまくってるんだよねーー

 

もうすぐ布団を買い替えることをいいことに、最近何をするにも布団の上で済ませてしまっている。食事もダラダラもパソコン作業もプリントアウトも歯磨きも。

潔癖の両親がこの惨状を見た暁には目をひん剥いて絶句すると思う そして私は二度と実家の敷居を跨げなくなるでしょう…

本をください

 

滝口悠生の作品「死んでいない者」のことをたまに思い出す。衝動が進めば引っ張り出して読み返す。

 

最悪なまとめ方をすると、死んだ者がいて、死んでいない者がいて、死んでいない者の生活は続いていくという話。いいよねえ、淡々としている、そのタンタンのタン、が足裏全面地面についている感じ。

 

先日祖父が死んだから、死んだ者は祖父で、死んでいない者は私だし、その他生きている者である。

コロナ禍のため、私は葬式に行けなかった。彼が死んだということを目で認識することはなかった。

 

そんなもんだから今のところ、私にとって彼の死は昔大好きだった女性アイドルの死と同列とみなされている。亡くなったことは頭ではわかるけれど実感がない。報せを聞いた日の晩に、あの人はこうだったああだったと思い返して、あの人は死んだけれど私は生きるんだなあ、「あの人の死」という事実以外、どんな声でどんな顔で好きな食べ物思想信念なんたらかんたらは全部死ぬんだわ、と無常にたやすく浸るだけ。どこか夢物語のような、聞く人が聞いたら共感能力不足だから医者に行けよと言われそう、それくらい非情。

 

最後に祖父に会ったのは一昨年の今頃だった。彼は呼吸器系の機能がよわってきていたから、もうなんとなく死期が近いことは皆が察していた。私もその例に漏れなかったので、久しぶりに行きたいとかよくわからないことを言って祖父母の家に泊まりに行った。

その時印象に残ったのは祖父の書斎、といってもいかにもな感じではなく、部屋の角に机と椅子、本棚を置いた簡素なものだった。数学系の小難しい本ばかり並んでいて、ちらほら収まっていた天文学の本を見つけた時にはときめきが止まらなかった。ちょうどその時期にブラックホールの撮影に成功したというニュースが発表されていて、大昔に天体が好きだった私はときめいていたからである。祖父もその方面に興味があるなんて、今まで知らなかった祖父の部分を知った気がして嬉しかった。その日の夕食時に、おじいちゃん宇宙好きなんだね、私も好き、ブラックホールのニュース見た?と聞いたけど何やら難しい話をされて終わった。何を話していたのかさっぱりわからなかった。

 

なのでおばあちゃん、おじいちゃんの形見と言っちゃあなんですけど、おじいちゃんの本、私にくれませんか。おじいちゃん、死んじゃったね。私がそれを私にわからせるために必要だと思うんです。

 

 

 

 

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