金曜日の夜

 

ノートに日記を書くようになってもう6年くらい経つ。

昔は毎日書いていたけど近年、特に今年は書きたい!と思ったときにしか書かなかった。そうしたら「今年の日記」という全体でみたとき、読み返すに堪えないものになっていることに気づいた。重い出来事ばかり書いてあるので読むのが大変。どうでもいい・なんてことない日常がちゃちゃっと書かれたターンもどうやら必要らしい。読み物には緩急を。

 

ブログを書きたいという気持ちが湧かなくなってしまった。日記とブログで書き分けるのが難しい。

 

人の文章を読むのは相変わらず好き。小説でもコラムでも論文でもツイートでもブログでもなんでも。あなたはこう考えているのね、と知るのが好きみたい。もっとあなたの考えてることを教えてください。

 

一方で自分のこと・自分に起こったことを話すのがとても苦手。どうしてなのか自分でもわからない。もう少し上手くなりたい。好き・嫌いの表示だけではなくて、〇〇だから好き、のように相手の情報量を増やすことに努めたい。求められてないかもしれないけど。

 

言語的・身体的コミュニケーションはなぜ行われるのだろうということをずっと考えていて、相手にいい気分になってもらいたいからという意見で一旦落ち着いた。このトピックを考えるきっかけとなった出来事も書かないと、なぜこの結論に至ったのか読み手には伝わらないとわかっている。しかしいかんせん面倒くさい。タイピングよりペンで出力する方が速い。スマホのロックを解除してアプリにアクセスするより、日記帳を開いた方が少ないターンで読み返せる。

 

人の考えを知るのが好きということに関連して、人からおすすめされるのが好き。自分の知らなかったことを知るのが好き。

でもそのくせめったに人におすすめをしないという自分の非対称性が気にかかっている。私はほぼ100%、人のおすすめを体験して感想を伝えているけれど、このようなコミュニケーション方法をとる人は意外と少ないらしい(私の周りには)。だから萎えてしまうみたい。期待しすぎているあたり、まだまだ青いなと思う。

 

虫の鳴き声が聞こえる。秋の夜は本当に美しい。私もあなたもいつまでも幸福でいられますように。

 

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写真も滅多に撮らない。写真を撮ることが目的化してしまいがちだから。撮ったら撮りっぱなしだから。でも文章や会話にて、相手とイメージを共有するために使われることが多い写真を、ツールとして行使していない自分がなんだか面白みのない人間に思える。私は相手と共有することを拒否しているのかなあ。だとしたらこの姿勢は相手を傷つけている気がするけれど。